3代目社長のホークス日記 vol. 9

おかりノムさん、大阪球場に 令和3年2月

2021年のプロ野球は、まだまだコロナ禍の中、昨年のように開幕延期されることなく、シーズンが始まりました。 それでも大阪は、感染拡大に歯止めがかからず、またまた緊急事態宣言の発令に、GWの京セラドームはついに無観客試合となり、楽しみにしていたホークス戦もチケット払い戻しになってしまいました。

そんな中で、SBホークスは、相次ぐ主力の離脱で苦しい戦いが続いてます。 エース千賀は、復帰できず、タフな守護神森もケガで離脱、ベテラン和田、主砲のグラシアルも相次いで離脱しながら、それでも、楽天と並んで貯金6で(5月19日現在)ゲーム差なしの首位と、チーム力の底力からをなんとか見せてくれている状態です。

今月末から、昨年中止された交流戦は、今のところ開催されそうなので、ホークスは特に得意の交流戦で、もう少し貯金を増やしてほしいところです。 特に今年は、6月4日(金)から甲子園でセリーグ首位のタイガースと激突が今から楽しみです。(私は、(土)第2戦と(日)第3戦に観戦予定です)

久しぶりのブログ投稿で、前置きが長くなりましたが、今回は、ソフトバンクホークスの前身、南海ホークスネタです。

僕らのスーパースター、監督、4番キャッチャー野村克也

私は、「野球が好きで、ソフトバンクホークスを応援しています」と言うと、「なんで福岡なんですか?、大阪なのに?」とよく聞かれます。
ご存知のように(若いファンは知らないかもしれませんが)現在の福岡ソフトバンクホークスの前身は、ダイエーホークス、そしてその前々身は、南海ホークスでした。
大阪の南海電鉄のなんば駅に隣接して大阪球場を本拠地としていました。 チームカラーはグリーン(緑)のチームでした。
小さい頃から、南海ファンだった父親によく大阪球場へ連れていってもらいました。
南海高野線沿線に住んでいたことから、とても身近なチームでした。

そしてその時のチームの柱は、監督で、4番でキャッチャーだったノムさんこと、野村克也選手でした。

大阪球場にこだまする「4番キャッチャー野村」のアナウンス、そして、バッターボックスに向かう背番号19が、野球少年の目には、ひときわ輝いてみえていました。
それでもその時のパリーグは阪急ブレーブス全盛時代で、当時の南海は、いつも阪急の後塵を拝していました。 監督の、キャッチャーの野村は、強敵ブレーブスの立ち向かうべく、弱い投手陣をなんとかやりくりしていて苦労している感じでした。

そんな弱者の南海が、唯一、阪急を倒した73年(昭和48年)のパリーグのプレーオフ(現在のCSシリーズ)、圧倒的不利な予想を覆して3勝2敗でパリーグ優勝をし、V8連覇中の長嶋、王の読売ジャイアンツに挑んだ日本シリーズ(結果、巨人のV9が達成)、強者に挑むホークスが、当時8歳だった野球少年の僕には、憧れのチームでした。

そんなスーパースターの野村克也が、突然に南海ホークスをクビにされ、放り出されてしまいました。
球団内や他のOBとの確執、電鉄との不和など大人の事情があったのでしょうが、当時の野球少年には何が何だか訳が分かりませんでした。

それ以後、南海ホークスの凋落は一気に加速し、その後は広瀬、穴吹、ブレイザー、杉浦と名だたるOBの誰が監督をやっても万年Bクラスの低迷ぶり、本拠地の大阪球場もいつもガラガラの閑古鳥が常の状態でした。

そしてついに、電鉄本社ももうお荷物となっていた球団を、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの流通大手のダイエーに売却、88年の10月の大阪球場の最終試合を幕に、遠い九州の福岡へ移っていきました。
その時の監督、杉浦さんの最後挨拶「ホークスは永遠に不滅です。行って参ります」を聞き届けて、僕の応援人生も終わったと思ったものです。

その後、時代も平成になり、自分自身も大学を卒業、それを機に米国留学に渡米したために、ダイエーホークスにはほとんど興味をもてませんでした。
おそらく南海電鉄としても、関西国際空港の開港を控えて、大阪球場跡地に早く新しい商業ビルを建てたかったのでしょうが、平成のバブル経済は呆気なく崩壊し、大阪球場も寂しい姿を残したまま取り残されていました。(一時期、球場の中に住宅展示場がある、とんでもな利用のされ方でした。)
やっと南海電鉄が、なんばパークスと言う大型商業施設を完成し、開業したのが、2003年10月、南海ホークスの売却から14年の歳月が経っていました。

その間に、福岡に行ったホークスも、最初は南海時代と変わらず、低迷したままでしたが、福岡ドームの建設、開業、王貞治氏を監督に迎えて、チームは力をつけて、ついに99年に初優勝、その後も毎年優勝を争う常勝チームに変貌してくれました。
そして、2005年からはソフトバンクホークスに変わり、更に常勝を加速させて、20年連続Bクラスと言う弱い弱い南海、ダイエー時代を知る僕には、信じられない時代が到来しています。

さて、開業したなんばパークスは、かつてそこに野球場があったとは、とても想像できないところでしたが、唯一の広場にここが、グランドのホームベースとピッチャープレートがあったと示すオブジェが埋め込まれ、それが大阪球場唯一の名残でした。
そして、パークス内のビルの上には、かつて南海ホークスの栄光を示す、遺品、かつての名プレイヤーのパネルを展示する「ホークスメモリアルギャラリー」のコーナーが、ひっそりと残されていました。


ノムさん(故野村克也氏)のいない、南海の球歴?

そんななんばパークス内のホークスギャラリーを見学すると、なんとなくしっくりこない違和感を覚えました。 「あれっ? 野村さんの展示がない」、そうなんです、栄光の南海ホークスの歴史の中に、「野村克也」の「ノ」の字も残っていませんでした。
かつてのいきさつや確執を知っていても、やっぱり僕の中では、これは南海の歴史じゃないとの思いが残りました。
「監督、4番キャッチャー野村は、どこに行った?」と寂しくなりました。

当時の野村克也氏も、偉大な選手としての偉業や記録を語るよりも、ヤクルトの監督、阪神、楽天と名将としてのご自身を語る方が多かったように思います。 野村氏が、南海時代を語っていた記憶がほとんどありません。

そして、突然の訃報が知らされました。 ちょうどベースボールマガジン社から南海ホークス特集号の発行にあたり、当時の大阪球場を振り返る取材を受けた翌日でした。 野村克也氏の逝去のニュースが入ってきました。
実は、知人の野球関係者の方から「最後は、野村さんも大阪に帰ってきたがっている」と聞いていたので、「最後はノムさんも大阪に帰れずに、旅立った」としんみりしてしまいました。

ノムさんが、大阪球場に帰ってくる日


南海ホークスの歴史にノムさんが存在しない違和感、そんな違和感は、私だけでなく多くの南海ファンやOBの選手たちも感じていたようでした。
昨秋、南海電鉄とサンケイスポーツが主催し、OBのエモやんこと江本孟紀氏が発起人となり、ノムさんを大阪に戻ってきてもらおうプロジェクト「おかえりノムさん、大阪球場」への企画が発表されました。
その企画では、従来のパークスのホークスギャラリーをリニューアルにそこに、野村克也氏の展示も加える、そして、その費用を広くファンにも呼びかけるクラウドファンディングが採用されるという画期的な企画でした。

当初の目標額は2000万円でしたが、「2000万円なんて、集まるかな?」と半信半疑で、クラウドファンディングの進展を見守っていました。 今回は、南海電鉄もかなりの気合の入れようで、難波駅構内のビジョンでPRしたり、各駅構内のポスターや車内のつり広告などでしっかりアピールしてくれたおかげで、今年の1月の締め切りには、目標の倍額近くの4000万円が集まっていました。

そして、ついに我らがスーパースター、ノムさんが大阪球場に帰ってきた

そして、令和3年2月14日(何故かバレンタインに)、故野村克也氏の1周忌に合わせるように、なんばパークスで、リニューアルなったホークスメモリアルギャラリーのお披露目がありました。

当日は、発起人の江本氏を中心に、記念式典もあったようですが、コロナの関係で、関係者だけで行われたようでした。

僕は、当日の午後から早速に見学してきました。 ギャラリー内には、僕と同じように比較的年齢高めの南海ファンらしき人たちでいっぱいでした。

選手時代のノムさんのユニフォーム、バット、キャッチャーミットや色紙などが大きなガラスケースにしっかり展示されていて、「これで、やっと南海ホークスの歴史に、最後のピースが埋まったな」と僕の頭の中には、大阪球場の「4番キャッチャー野村」のアナウンスの響きが蘇ってきました。

今回の企画には、ご遺族の野村克典氏もご賛同とご協力を頂いたと報道されています。
今頃、天国からノムさん(故野村克也氏)は、いつもの毒舌に、この展示をどんな風に眺めているんでしょうかね?
天国で、鶴岡親分や盟友杉浦投手、皆川投手と再会して、またまた野球談議にもりあがっているでしょうか?

1938年3月に日本職業野球連盟に加盟以来、80年以上の歴史を重ねてきた球団、ホークス
鶴岡親分が率いた黄金期、そしてその後の長期低迷期、ダイエーへの売却と福岡移転、王監督招聘後の復活期、そして、ソフトバンクへ引き継がれた現在の常勝期と、様々な変遷があっても、故杉浦氏が最後に言ったように、いつまでも「ホークスは不滅」であってほしいものです。

そんな思いで最後にYou Tubeから引っ張ってきました、南海ホークスの歌を聞いてください。

久しぶりの投稿で、気合が入りすぎてしまいました。今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました。

いつもブログの管理者の妻に、もっと短い文章でいいから、もっと頻繁にホークスネタでブログアップしてよ、と注意されています。
頑張りますので、これからもお付き合いよろしくお願いします。

この記事を書いた人

豆菓子屋の3代目の社長

豆菓子屋の3代目にして、無類の野球好き、主に地元の京セラドーム大阪で、福岡ソフトバンクホークス戦を熱烈観戦