2011年(平成23年)3月10日の豆菓子屋 冨士屋製菓本舗

週刊文春さんで初めてメディアデビューでした

メディアデビューの日

2011年(平成23年)3月17日号の
全国版 週刊文春さんの『私のお取り寄せ便』に掲載された。

発売日が3月10日でした。
その日は朝から電話はひっきりなしになり、
ネットの販売の方でもドンドン注文が入りだし
未だかつて経験したことのない注文の多さでした

その日発送できるものはどんどん発送、伝票を作り工場のスタッフに1件1件のセットを作ってもらい、発送をするが追いつかない。そんは3月10日でした。

週刊文春2011年3月17日号 販売日2011年3月10日


ご紹介頂いた先生との出会い



大阪の難波にある高島屋さんの地下1階で、年に1回催事販売をしておりました、植島啓司先生はそこでのお客様だったのです。

甘い系の味がお好みで、お取り寄せもしていただいていたのです
ご紹介頂いた豆菓子は「あーもんどエスプレッソ」「メープルカシュー」でした。
ご注文のお電話は「雑誌の写真に載ってるのを全部欲しいから送ってくれる?」と言われることがほとんどで、「サクサク小豆抹茶風味」「まるごとクランベリー」も沢山の方にお買い求めいただきました。



2011年3月17日号の週刊文春でご紹介頂いた内容

東北への発送はできませんの言葉に…

2011年(平成23年)3月11日も朝からひたすら発送の準備で走り回り、なるべくお客様に早くお届けできるように、しかしご注文を頂いた順番で発送の準備を進めていました。

16時前に、宅配便のいつものお兄さんが来てくれました
「今日もすごい量ですね~、あ!でもこの東北の方へは送れないと思いますよ」
「え?何を言ってるの?」
「知らないんですか?ものすごく大きな地震と津波で大災害がおきたんですよ」
「うそや…」発送業務にみんなで集中していたので何も知らなかったんです。

画像は、宮城県亘理郡山元町立山下第二小学校に社長が後に訪れた時のものです。津波到達の時刻だったのでしょうか…。





2011年(平成23年)3月11日宮城県亘理郡山元町立山下第二小学校

豆菓子は送っていただけましたか?

12日の昼頃、お客様からの発送確認のお電話がありました。
「仙台の○○ですが、豆菓子はいつ発送していただいたでしょうか?」
ドキッとしました
「申し訳ございません、10日にご注文を頂いていたのですが、11日に発送になりストップがかかりました」
「そうですか…もしも10日発送だったらと思い電話をしてみたんです、食料品がどうやらなくなるかもと思って
 もし豆菓子が届くのであれば助かるなと思ったので」
涙が止まらなくなりました。頑張って発送していればと後悔するばかりです
あの時のあの方の声は忘れられないです。

その時に思ったんです、豆菓子が届けば喜んでいただけるんじゃないか?しかし阪神淡路大震災の教訓があるので
むやみやたらに物資は送れないと思い、まずはメルマガでお客様に呼びかけました
お客様の中で、この震災でボランティア活動をしようとされている方、また被災地に物資を運ぶことができる方ご連絡を頂けないでしょうか?大阪の小さな豆菓子屋ですができる限りのことをさせていただきたいんです

すると、お客様の中で宮城県刈田郡蔵王町の方が、知り合いがボランティア活動をしていて宮城県亘理郡山元町へ行き来しているとのこと、すぐに繋げていただきこれから何ができるのか、色々やり取りをさせていただきました。

山元町は海岸に近く津波の被害も大きかったところ、とにかく豆菓子と着るものが必要と言われ、メルマガや友達に呼びかけ着るものを集め、豆菓子もなるべくいきわたるように小さめの袋に詰めて発送、宮城県刈田郡蔵王町だったら届けられると宅急便の方も動いてくださり、どれくらいの量がいったのか、画像も何も残っていなくて…しかし皆さんから届いた洋服を仕分けし、梱包する作業を毎晩夜中までしていたことは覚えています。

行政が動き出し、少し落ち着き、夏を迎えるころ夏物を探されていると聞き、また皆さんに呼びかけ発送したこと、そしてようやく社長が11月に山元町の仮設住宅にお伺いできました。

2011年11月にはやっと冨士屋製菓本舗の社長が現地へ

10月に仙台のイベントへ地域の子供たちの声を届けました

仙台ぱどさんが10月16日に「まみたんコンサート」をおこなって
仙台の方々に少しでも笑っていただけるようにと企画のお話を、小学校のPTAの役員仲間から情報を頂き、娘たちが通う小学校に一言メッセージを書いてくれたら、豆菓子にそれを貼って、当日配ってもらうというのはどうかと社長が話を決めてきてくれました。
子供たちのメッセージがどのように伝わったか、それは直接お伺いできなかったのですが、「大人も子供もメッセージをみながら笑みを浮かべ豆菓子を食べていましたよ」とお伺いでき、少しでも寄り添えたことにとてもうれしかったです

11月の始めに山元町の仮設住宅へ社長がお伺いできました

寒い時期に入り、皆さん疲労の重なり本当に大変な時期だったと思います。2011年11月に社長が山形の方から山元町へ向かわせていただきました。
皆さんに手渡しで豆菓子をお配りしたかったからです。

もし豆菓子で、皆さんに寄り添うことができるのなら…
そう思い続けていました

山元町の仮設住宅にて豆菓子を配る冨士屋製菓本舗の社長
ボランティア活動をされていて、私たちをつないでくださった皆さん

私達を宮城県山元町に繋いでくださったお客様

あのメルマガを読んで、すぐにご連絡を頂いた「松本和子様」、社長はこの山元町の帰りに、松本様のお宅へ訪問をさせていただき、色々とお話ができたそうです。

その後も2014年にもう一度社長は山元町の復興を観に行っています。【被災地の復興への思いを込めて
その時は松本様のお宅に泊めていただき「雅江さんは?」と言われたそうです(笑)

毎年、節分には福豆を送らせていただき、こんなお手紙も毎年くださっていました。病気をされ、大変な中に私たちにご協力くださった松本様は、2017年の節分のお礼のお手紙がご主人からだったこと、文中には2016年の年末に亡くなられたと…
なぜ私は逢いに行かなかったんだろう未だに悔やまれてなりません。「楽しみにしておりました」って言ってくださってた。


2016年6月1日の一本の電話


ご注文のお電話をいただきました。お話の最後に、今回のご注文のきっかけは?とお尋ねしましたら
「話せば長くなるんですが、東北の震災の前日に注文して震災が起こり、食べるものがなく発送はしてくれたかと、電話をしたものです。発送可能になった時に沢山の豆菓子を送っていただき、ご近所などに配り喜んでいただいたのに、大好きな豆菓子を食べると震災を思い出すので、中々電話もできなかったんです。すみません。やっと最近立ち直ってきたので、お電話させてもらったんですよ。その節はありがとうございました」そう、あの方でした。

私は電話口で話されているのを聞きながら、涙が止まらずこんなにも長い時間苦しんでおられたんだな、でもまた豆菓子を食べたいって思って下さったんだな、弊社はこういう方々の為に豆菓子を作っていきたいと心の底から思いました。 

豆菓子屋にできること

明日の2021年3月11日を迎えるにあたり、10年間は豆菓子屋として、人としてどんなだったかな?
そんな風に考える機会を頂きました。

どこかで災害が起きた時、知り合いを探し行政が動くまでの間のつなぎとして、行政の目の届かないところへ
寄り添う私達でいたいと思い行動をしてまいりました。
それは、108年豆菓子屋を続けさせていただいた恩返しなんです。
きっと沢山の方に助けられ、ここまで来たと思うんです。だったら豆菓子屋ができることは、苦しい寂しい思いをされている方に
そっと寄り添う事なんじゃないかなと考えての行動です。

時には医療従事者の皆さんへの感謝の甘い豆菓子であったり、復興の片付けのときに持って行くちょっと小腹を満たす豆菓子であったり
普段お買い物をしてくださったその売り上げで、タオルを買いお届けしたり、色んな方と繋がり、色んな方と寄り添ってこれたのではないかと思っています。そしてこれからもです。

元気で、ニコニコと豆菓子作って、皆さんにお届けできることが感謝なんだと良い一日をいただきました。
長い文章、最後までありがとうございました。
松本和子さんへ感謝の気持ちを込めて。

    三代目の嫁 雅江

この記事を書いた人

3代目の嫁

豆菓子が世界一大好きな豆菓子屋の三代目の嫁、毎日豆菓子が食べれてとっても幸せ